

暑い、ここ暫く、朝4時起きで、5時から菜園の仕事をしている。そしてNHKBS毎日のように午前中に大谷のドジャース中継。その時間に合わせて菜園の仕事をまとめている。3から4時間汗をかき、冷房の効いた部屋で大谷をみる。気楽な生活。罰が当たる。そんな気がする。イチロウの米国野球殿堂入りのセレモニーが流れた。
イチロウ、少し懐かしい響きだ。十数年前MLBと言えばイチロウだった。当時は仕事が忙しく、ノンビリTV観戦など想像できなかった。振り子打法 レーザービーム 覚えている。セレモニーのスピーチが始まる。立派なスピーチだ。声色を変え身振りたっぷりのレーザービームのつかみ 受けていた。奥さん(弓子さん)が下を向いて笑っていた。 スピーチ二人で作ったんだろうな。
イチロウは 夢という言葉は漠然としすぎている。小さな目標を持ちそれを積み上げていく。それが大事だ。と述べていた。 最後に奥さん(弓子さん)への感謝を述た。引退後二人で始めてシアトルの球場に行き。 ケッチャップ一杯のホットドッグを食べたという少し泣かせるエピソード でスピーチは終わった。
そう言えば いっきゅう(一弓) というワンちゃん Nスペだったかな イチロウの特集 出てきていたな。凄く綺麗な柴犬。当時、私の家にもアン助というミニチュアダックスのわんこが居た。イチロウのさりげない日常の中に犬がいた。イチロウは自宅に特注のトレーニング機材を持ち込んでいた。大きな部屋がその機材で一杯になっていた。そんな無機質な景色 いっきゅう(一弓)が溶け込んでいた。あの頃の私の忙しく落ち着かない生活と共に シーンが巡る。イチロウ30才 私50才…。私は大変な時期であった。


「野茂さん、ありがとうございました」突然日本語で野茂英雄氏に感謝の意を表明していた。そうだ野茂がいたなー。野茂も凄かったなー。あれは阪神・淡路大震災が起きた年1995年30年前 野茂は海を渡った。 私は39才京都伏見の家で、震度5強の揺れを経験した。私は野球にそれほど興味はなかった。が、しかし…、野茂のBS1生中継は休みの日に見た。良く覚えていないが、野茂は望まれて渡米したわけではなかったと思う。所属チーム近鉄バッファローズおよび監督鈴木啓示氏との確執。マスコミの評判も悪かった。何か裏切り者扱いの渡米、ドジャース入団だったようだ。その年MLBで大活躍 凄かった。日本人がMLBの強打者をバッタバッタと三振に打ち取る。何か誇らしかった。日本中が熱狂した。日本人のピッチャーがMLBで通用する。通用するどころか速球とフォークで圧倒している。「かっこういい-」なのだ。しかも「MLBでは通用しない」「自己満足、ここに極まれりやで」などボロボロに言われながらの大逆転だ。その生き方が「かっこよかった。」「痛快だった。」。失われたと言われた世代、時代は閉塞していた。そんな1990年代、野茂はまさに「さむらい」だった。
野茂から30年。野茂56才 イチロウ50才 私 来年70才 私は仕事を辞め10年 もういいかなと思うこともある。成功した人生ではない。むしろ失敗の連続だ なにかやるせない思いもある。イチロウは後進の指導、高校生の指導をしているという。彼らしく スモールステップを踏み きちっとしたスケジュールを組み 野球に向き合っているのだろう。この小さな目標の積み上げと言うと 大谷翔平の目標達成シート(マンダラチャート)を思い浮かべる。まー私の経験では、この目標を掲げ一つ一つ達成することができ続けられる人は希有だと思う。目標設定(文字にすること)これが難しい。とかく大上段になりがち、スモールスッテップと全体の方向性このバランスを取ること 実行に向けた学習行動のタイムスケジュールを組み、日々の生活に落とし込む。そして実行と反省のサイクルを回して10年20年と続ける。 投球スピード 今のスピードを知り 身体 心 技などの視点から今できることを列挙しシーケンスを作り生活に組み込む。これを続けるためには 動機付けが必要だ。達成感が必要だ。周りから褒められる。自分を肯定できる。私は、あまり旨くできなかった。私の場合向き不向きということをあまり考えなかった。自分の向いていること 楽しくできること そのことが判らないまま、生活に流された気がする。「野茂もイチロウも大谷もすげーよなー」と思いながら、クーラーの効いた部屋でMLB中継をみている。でも 人生の最後に何かやってみたいと思っている。「その何か」少しずつ表していきたい。そしてその現れの一つがこのBlogなのだとも思う。
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